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この詩編は、出エジプトからダビデ王の即位迄のイスラエルの罪と不信の歴史を振り返り、自分たちの子孫が同じ轍を踏まないことを願って記された箴言(2節=教訓,警告)であると言って良いでしょう。
主なる神は、御自分の民イスラエルを「海を開いて…渡らせる」(13)という「不思議な御業を行い」(12)によって、エジプトの奴隷の状態から解放してくださいました。解放後は荒野を旅することになります。必要なのは導き手であり、物質的には水です。神は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって彼らを導き、また必要な水を整えてくださったのです(14∼16)。しかし、民は神を信じることをせず、パンや肉を求めました(20)。それに対して神はマナを降らせ、更にはうずらの肉を十分すぎるほど与えてくださったのです。そのマナは毎日必要な分だけが与えられました。尤も、安息日を前にしたときは二日分、貯えることが許されました。神は、本当にわたしたちに必要な物を御存じなのです。ですから、その神に信頼して歩んでゆけばよかったのです。
しかし、肉を求めたときです。神はうずらの肉を与えてくださったのですが、彼らは欲望から離れることがなく、神の怒りによって滅びた者も多くいました(30∼31、民数記11章も参照)。そのように神に対して呟き、試み、不信を繰り返し抱くイスラエルの民でしたが、神は「憐れみ深く…繰り返し怒りを静め」(38)、彼等を導き続けてくださいました。神は恵みの御心を変えることはなさらないのです。だから、その神を信じて信仰生活を送るのです。
主イエスはヨハネ6:48で「わたしは天から下ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と仰せになりましたが、天から降ってきた命のパンである主キリストに信頼して、信仰生活を送るのです。
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