|
上記の聖句を「いと高き神の右の御手が変わったと考えたところに、わたしの恥辱があった」と訳している注解者がいます。この詩人は3節にあるように苦難に襲われました。その時、必死に祈り求めました(2節)。しかし、「わたしの魂は慰めを受け受け入れません」と3節の最後にあるように、受け入れるに足るほどの神の慰めは届いていない、と思わずにおれなかったのです。少なくとも、彼自身が考えるような仕方では、神は右の御手をもって、それだけしっかりと助け慰めてくださってはいない、と考えていたのです。
しかし、それは、自分の間違いだったことが分かったのです。自分自身や同胞に対して、今までなされた主の御業、奇蹟、働きなどの一つ一つを思い続けたとき、神の右の御手は一時たりとも、自分を離れたことがなかったことに気づいたのです(12∼16節参照)。だからこそ、「いと高き神の右の御手が変わったと考えた」ことは、わたしの恥辱であったと慨嘆し、主に対する信仰を、改めて深くすることになったのです。
「大きなことを成し遂げるために力を与えて欲しいと神に求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよきことをするようにと病気を賜った。…世の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにも拘らず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。わたしは最も祝福されたのだ」という詩があります。神は思いもかけない仕方で臨んでくださり、本当に必要な物を与え給うてくださるのです。そのような祝福の内にあることを覚え、何があっても主を信じて歩んで参りたいのです。
|