上記聖句を「神は…心の清い人に対して、やはり恵み深い」と訳し、それがこの詩編の語っている内容である、と言っている人がいます。信仰生活には、喜ばしいことばかりがある訳ではありません。辛いこと、納得できないこと、それでも神は生きているのかと思えることなども起こります。この詩人は、心を清く保ち、神に信頼して生きていましたが、「神に逆らう者」(3,12節)の仕打ちによって病になり、労苦を味わうことになったと思われます(14∼16節)。しかし、その神に逆らう者たちは「安泰」であり、「安穏で、財をなしている」のです。それを思ったとき、彼は「危うく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうにな」(2節)り、主なる神への信頼が揺らいだのです。清き心をもって主を信じて生きる者がそのように虐げられ、神に逆らう者が安穏で財をなして生きていることに不条理を感じ、神に抗議したのです。
しかし、この人は「ついに…彼らの行く末を」知る機会を得ます。神は、決して彼らをそのままになさらず、荒廃に落とされること(17∼20節)を。それだけではなく、御心を知りもせず、神に向かって獣が咆哮するように不平不満を口にしていた自分のことをも、神は見捨てないどころか、「右の手を取って…御もとにとどまることができるようにしてくださる」ことを(21∼23節)。
この人だけではありません。神は、わたしたちに対しても、同じように関わってくださるのです。自分の思いの通り事は運ばないかもしれません。逆らう者たちが行く手を妨げるということもあるでしょう。しかし、神はわたしたちに近くいまし、御許においてくださるのです。現に、神は、そのことを示してくださるために、ついに独り子なる神をわたしたちと同じ人間としてお遣わしくださり、わたしたちの救を成就してくださるために、その独り子なる神を十字架につけてくださったのです。「神はやはり恵み深い」のです。
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