この詩人は老境にいると思われます。老いるということについて、多くの人はマイナスの印象を持つでしょう。若いときのように俊敏に動けなくなる、記憶力が弱くなる、キレやすくなる、繰り言が多くなる等々です。しかし、老いるということは、人生経験が長いぶん神の御計らいをより多く受けており、恵みの御業についても豊かな経験をしている、ということでもあるのです。
実際、この詩人は、その若いときからの神の恵みの御業を数え上げています。「主よ、あたしは若いときからあなたに依り頼み/母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました」(5∼6節)、「神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました」(17節)等と記されているとおりです。しかも、この人は今「悪事を働く者、不法を働く者」(4節)によって虐げられているのです。そのような中にあっても、神の恵みの御手の内にあった自分を思い起こし、その恵みの御業を数え上げ、その主を賛美し続けているのです。「わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。/わたしの口は恵みの御業を/…なお、決して語り尽くすことはできません」(14∼15節)と記されているとおりです。
年齢を重ねるということは、そのように神の恵みの御業を多く経験することができているし、それらの恵みを数え上げ得るということでもあるのです。またその事実があるから、終わりの時を迎えても、「再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう」(20節)という希望に生きることもできるのです。
教会も高齢化していると言われます。その分、多くの恵みを頂いてきているのです。望みをもって、豊かな恵みを賜う主を賛美し続けて参りたいのです。
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