「わたしの命をねらう者」「災いに遭わせようと望む者」「はやしたてる者」(3∼4)たちによって、この詩人は苦しめられています。それ故に「速やかにわたしを救い出し…わたしを助け出してください」(2)と願わずにはおれないのです。貧しく、身を屈め、まるで奴隷のようになって、平身低頭、ひたすら懇願するほかないのです。
それは、実は、わたしたちの現実でもあります。自分をそのように命を狙われていない、災いにもあっていないと思うかもしれません。だから、貧しく、身を屈めて懇願する必要はない、と思えるかも知れません。確かに、暴虐のという現実はないでしょう。しかし、罪という点から言えば、同じように僕のように平身低頭して、主よ、速やかのおいでくださり、わたしを助けてくださいと願うほかないのではないでしょうか。
5節には「あなたによって喜び祝い」とあります。わたしたちが主なる神に向かって、喜び祝いつつ賛美を献げることができるのは、この言葉のとおり「あなたによって」です。詩編51:17の「主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの讃美を歌います」も、同じことを言っています。主が、罪の故に汚れた唇を聖めて開いてくださらなければ、わたしたちは主への讃美ができないのです。そして、主なる神は、独り子なる神、主イエス・キリストにおいて、そのことを成し遂げてくださったのです。わたしたちは今や、御子の十字架による罪を贖いによって聖められ、喜びをもって神を崇めることができるようにされているのです。その主は、今もわたしたちに近くおられます(フィリピ4:4参照)。だから、その主によって神讃美、神礼拝を続けるのです。
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