上記聖句のように、主なる神のもとに来て、その御業を仰ぎ見ることが、わたしたちの信仰生活の基本です。わたしたちは、自分の信仰生活は、わたしの信仰生活だから、わたしがどのように考え、わたしがどのように振る舞うか、また、わたしがどれほどの確信を持っているか、納得しているかということが大事なことだと思うかもしれません。しかし、この詩編は「来て、神の御業を仰げ」というのです。自分を見るのではない、自分がどのように考えているのかをみるのでもないのです。主の御許に来て、主なる神の御業を見るのです。
その御業とは、ここの場合は「神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った」(6)ということです。これは、出エジプトという解放の出来事と、ヨルダン川を渡ってカナンに入り新しい生活を始めたという出来事のことを言っています。そのような解放と新生の出来事を、主なる神がもたらしくださったのです。わたしたちで言えば、イエス様の十字架と復活による罪の贖い(罪の支配からの解放)と永遠の生命(新生)が、それに相当するでしょう。そのように、神がわたしたちの救いのために成し遂げてくださった事実を見るのです。その救いの完成に至るまでわたしたちを導き給う主をこそ、主として仰ぐのです。
「神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない」(9)のです。わたしたちの信仰生活はいつもふらついています。少しの出来事でも信仰が揺らぎ、頭を垂れ、御業を見ることをやめてしまうのです。しかし、主はそのよろめきを御許しにならないのです。それ程、わたしたちに賜う罪の贖いと永遠の生命の約束を完成へと導き給うてくださるのです。その主の御業を思って、「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」(1)とあるように、わたしたちも賛美の声を高らかにあげるのです。
|