日本語では分かり難いかもしれませんが、上記2∼3節および6∼7節では「のみ」「ただ」「こそ」と訳すべき字が、何度も出てきます。皆、同じ字です。この詩人は、神にのみ救いがあり、希望があることを知っており、そうであればこそ、神をこそ信じて生きているのです。そのことは、この詩編の最後の13節に「ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる」とあることからも分かります。神こそが、最終的報いを降すお方であり、真の黒白をつけ、絶対的裁きをなさるお方なのです。だからこそ、どのような中にあったとしても、ただ神を信じ、神にこそ信頼するのです。
この人の置かれている状況は、必ずしも明確ではありませんが、敵対する者からの攻撃によって亡き者とされようとしていることは、4∼5節から明らかです。しかし、この人にとって、それらの敵対する者たちが威圧感を持っているのではありません。むしろ、彼らは皆空しい者に過ぎないのです。「人の子らは空しいもの。/人の子らは欺くもの。/共に秤にかけても、息よりも軽い」(10節)とあるとおりです。口語訳聖書は、前者の「人の子」は「低い人」、後者は「高い人」と訳していました。そのように人間の目から見れば、軽重があったも、皆「空しい」のです。秤にかけても息よりも軽く、メモリは1ミリも動かないのです。それほど、敵対する者たちは空虚であり、無力なのです。従って、畏れるに足りないのです。
畏れ信頼すべきお方は、「力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」(12∼13節)とある全能の慈しみの神です。その神に捕らえられていることに信頼して、「御前に心を注ぎ出す」(9節)生活を送るのです。
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