「高くそびえる岩山の上に…導いてください」ということは、主なる神の堅固な守りの中に置いてくださいということでしょう。この詩人は、同時に「王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください。/王が神の前にあってとこしえの王座につき/慈しみとまことに守られますように」(7∼8)と、王が長くその座位に留まることをも願っているのです。そのことから考えると、この詩人は捕囚の憂き目に遭って「地の果てに」おり、母国が滅びると自分の命も危うくなるような中に居る、と想定できるのです。
そのような目に見える捕囚という現実のほかに、この詩人はもう一つの主にある事態をも見る目を持っています。それは「あなたは常にわたしの避けどころ」(4)であり「あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れ」(5)ることができているという事実です。幕屋にあるのは契約の箱です。そのことから分かるように、自分は「神とその民」という契約の中にあり、そこから落ちることはないという主にある事実を確信しているのです。この詩人は、その主にある恵みの事態への信頼に生きているのです。
それは正に信仰者の生き方です。目に見える所には困難があり、災いがあります。時には、神の御守りを疑わせるような事態も起こります。神の民の群れから離れて、一人地の果てに居るように思えるときもあるのです。しかし、その中にあっても、わたしたちは神との契約の内に置かれているのです。「神とその民」という関係の内に居るのです。罪がその主にある恵みの事実を覆い隠そうとしますが、今やその罪が主イエスによって贖われて、「神とその子ら」という関係が明白になっているのです。その恵みの事態をしっかり認め、わたしたちも「永遠にあなたの御名をほめ歌い」(9)たいものです。
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