この詩編成立の経緯は不明ですが、民族存亡の危機にあったことは確かでしょう。そのことは、「神よ、あなたは我らを突き放し/怒って我らを散らされた。/どうか我らを立ち帰らせてください」(3)という言葉や、「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。/神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか」(12)などの言葉を読んでみても分かります。神はわたしたちを突き放され、敵対する者たちを迎え討つべく、共に出陣してはくださらないと言わざるを得ない状況にいるのです。
それに対して、主なる神は宣言されます(8)。イスラエル12部族に入っているマナセ、エフライム、ユダたちを、主なる神は御自分のものとしてくださり、主なる神の兜のように堅固なものとし、神の支配権を行使する杖のような存在としてくださっているのです。そのように、御自身のものとして守ってくださるだけではなく、その民を通して神の支配権を地に及ぼそうとしているのです。敵対するモアブやエドム、ペリシテ(10)などは主なる神の支配下に置かれ、奴隷のように扱われることになるのです。
わたしたちは、ともすれば目に見える現実に振り回されて右往左往することがありますが、いかなる状況に置かれても、変わることなく主の民とされていることを覚えたいのです。その主にある事実に目を向け、そこに留まって信仰生活を続けたいのです。パウロは「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。・・・イエスの命がこの体に現れるために」(Uコリント4:8∼10)と言いましたが、それが、わたしたちの主イエス・キリストにある真実であることを覚え、そこに留まりたいのです。
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