この詩人は、「御覧ください、主よ」(4)とか「目覚めてわたしに向かい、御覧ください」(5)と、繰り返し神に訴えています(6,8も参照)。そのように訴えるのは、主なる神を信頼しているからです。上記聖句に「神はわたしに慈しみ深く、先だって進まれます」とありますが、そのように先立ちゆき給う主なる神への信頼があればこそ、必要な御支え、御導きを祈るのです。そのことは、わたしたちにも求められていることでありましょう。主がわたしたちの先頭に立って導き給うてくださっていることへの信頼です。そのことに信頼するからこそ、どのようなことがあっても、主に「御覧ください」「目覚めてわたしに向かい」給うようにと願うのです。
この詩人が、具体的にどのような立場にいたかについては、諸説があります。ある人は、これはネヘミヤによる神殿の城壁再建のときのことが、背景にあるのではないかと言っています。バビロン捕囚から帰って来て、荒れ果てたエルサレムの城壁を再建しようとしたとき、周囲の諸国の民から「犬のようにほえ」て嘲られ、「聞くに堪え」ない侮蔑の言葉を口にされたということが背景にあるというのです(7節参照)。実際、ネヘミヤ記を読むと、「できたとしても、そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう」(ネヘミヤ3:35)と言われたと記されています。
神の民の群れは小さく、力のない群れであることが多かったのです。しかし、そのような小さな群れであっても、主は慈しみ深く、先だって進み給うてくださっているのです。実際、主イエスも「小さな群れよ、恐れるな、あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)と約束くださっているのです。その主を「力と頼」み、「ほめ歌をうた」って(18)、歩んで参りたいのです。
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