この詩人は、「公平な裁きを行って」(2節)貰っていません。「不法を量り売りしている」(3節)人々によって、不当な裁きを受けているのです。「不法を量り売りする」というのは賄賂を意味していると思われますが、そのような不正がまかり通って公平な裁きがなされず、弱者はますます弱っていくという現実があるのです。そのような現状をみても何とも思わないほど、わたしたちは「母の胎にある時から汚らわしく」「母の腹にある時から迷いに陥っている」(4節)のです。それほど、わたしたちは罪の内にあると言ってよいのです。
しかし、上記聖句のように、「神はいます」のです。そして、そのような不法を放置なさることはせず、確かに「この地を裁かれる」のです。実際、11節には「神に従う人はこの報復を見て喜び/神に逆らう者の血で足を洗うであろう」と言われているのです。ここには、神の報復について「神に逆らう者の血で足を洗う」とありますが、具体的に、どういうことかは定かではありません。しかし、罪の裁きや贖いには、血が必要であるということは確かです。
神は、わたしたちの罪を暴き、罪の贖いを果たすために、実際に血を流し給うのです。しかし、神はそのために、罪の内にある私たち自身の血を求めることはなさらずに、独り子なる神、主イエス・キリストを十字架にお掛けになり、その血によってわたしたちの罪を贖ってくださったのです。ヨハネの黙示録7:9以下にはヨハネが見た天上の光景が記されていますが、そこでは小羊の血で洗って白くした衣をまとった者たちが主を賛美しているのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)である主イエス・キリストの血によって、わたしたちは罪贖われ、その小羊の血によって清められた勝利の白い衣を着る者とされていることに感謝し、わたしたちも御名を賛美してゆくのです。
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