この詩編が、1節にあるように「ダビデがガトでペリシテ人に捕らえられたとき」に歌ったものだとすれば、このときダビデは気が触れた者のようになって難を逃れましたので、相当屈辱的な思いになったことでしょう。それらは皆、サウル王のせいでした。ダビデはサウロ王のために身を粉にして仕えました。イスラエルを悩ましていたペリシテ軍のゴリアテに打ち倒したのも、サウロのためでもありました。
しかし、民衆が「サウロは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っているのを聞いてサウロの心はダビデへの嫉妬心で焼き尽くされ、ダビデを亡き者にしなければ気が済まなくなったのです。それ以来、ダビデはサウロから謂れなき追撃を受けます。それら一連のことを思って、ダビデは「わたしを憐れんでください」と願っているのです(2節)。
しかし、ダビデは同時に上記聖句のようにも語ります。仮令、自分がどれほど理不尽な仕打ちも受けることになったとしても、主なる神はすべてを御存じであり、自分の苦難を記録に留めてくださっている、わたしの涙を御自身の革袋に蓄えてくださっていると語って、主への信頼と讃美とに生きようとしているのです。神がご自身の革袋に彼の涙を溜めようとしたら、その革袋を彼の目の下にまで持って行く必要があります。それほど、主なる神は低きに降り給うて、自分を支えてくださっていると確信しているのです。
神は、最終的には、御子においてわたしたちと同じ人間になり給うただけではなく、わたしたちの罪の贖いのために十字架の低きにまで降り給うてくださいました。そのようにして、罪の故の涙を御自身に引き受けてくださったのです。だから、「主の御言葉を賛美」(11節)しつつ歩んでゆくのです。
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