「異邦の者」とは、普通に言えば外国人のことですが、彼らについて、すぐ後に「彼らは自分の前に神を置こうとしない」と言われているのです。異邦人は、元々自分の前に神を置こうとしません。前に置くべき神を知らないからです。ならば、この言葉は、神を知り神の御守りを知っているのに、神の御心に背いている同胞者のことを指している、と言って良いでしょう。彼らは神を神としていないのです。預言者イザヤの言葉を使えば、「牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。/しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない」(イザヤ1:3)で、神に背を向けている者たちです。その者たちから、この詩人は命を狙われているのです。だからこそ、「神よ、御名によってわたしを救」(1)ってくださいと懇願するのです。
神とその恵みを知りながら、神を神とせず、自分の主張や思惑を主として、正統な信仰を持っている者たちを攻撃してくる者たちは、現代においても居ります。わたしたちは、それらのものたちの攻撃によってたじたじとなることも、しばしばあるのです。しかし、そのような攻撃の中にあっても、主なる神が御子においてわたしたちを守り、救い出してくださることを知っています。この詩編の6節以下にも、神の救いの御手が差し伸べられていることが記されていますが、わたしたちも御子の十字架の贖いによって神の陣営に置かれているのです。具体的には、洗礼において、わたしたちはその御子「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」(ローマ6:11)者とされているのです。
そのことを覚えて、わたしたちは主の恵みの御業に感謝して、「自分自身を…神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(同13節)とあるように、自分のすべてを主に献げてゆくのです。
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