上記聖句から明らかなように、わたしたちの神は探し求める神です。罪を犯して木陰に隠れてしまったアダムに向かって、神は「どこにいるのか」と声をかけ、探し求めてくださいました。罪を犯した者への最初の言葉は、叱責でも追及でも裁きの言葉でもない、探求の言葉であったのです。典型的なのは預言者ヨナです。彼は「ニネベへ」という神の指示に従わず、勝手にタルシシュ行きの舟に乗ってしまいました。神の完全無視です。結果、彼は魚に飲み込まれます。それは、陰府に降ったということです。しかし、そこまで落ちたヨナを、神はなお探し求めて魚の腹から出して、ニネベに行かせるのです
新約聖書においても事情は変わりません。有名な放蕩息子の譬を読んでも分かります(ルカ15:11以下)。神である父を亡き者にすると言う罪を犯して、御許から離れて死んでしまったに等しい者をも、常に探し求め続け、遂にはご自身の御手の内に置き給うてくださるのです。
わたしたちは皆、この詩編が示すように「神などない」と言い、腐敗し、忌むべきことを行い、善を行おうとはしないのです。皆、神に背いているのです。その故に滅びは免れないのです。「骨を…まき散らされる」(6b)とあるように、陰府に堕ちても何も抗議できないほどであるのです。
必要なことは、「神への畏れ」(ローマ3:18)の回復です。ローマ書のその言葉は、詩編36:1bの引用です。そしてその箇所は、我々の聖書では「恐れ」と訳されていますが、もとはと言えば「心のまっすぐな人」という意味だということです。わたしたちに必要なことはそのような「まっすぐさ」です。御子を十字架につけてまでして探し求めてくださっている神の愛を覚えて、今度はわたしたちが一心に主の慈しみを慕い求めて、主を礼拝するのです。
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