詩編51編では、罪を言い表すのに三つの言葉を使っています。「背きの罪」(11節の咎と訳されている字も実はこの字と同じ字です)と「咎」(7節にも出てきます)と「罪」(9節も同じ字です)の三つです。そして、それらは自分の欠点と弱さとか過ちを示す字ではなくて、どれも皆神との関係に関わる字です。神との関係が神に背を向けたり、損なっていたり、的をはずすことになったりしているということを示しているのです。そうであれば、この詩人は「あなたに背いた」と告白し、「あなたのみに…罪を犯した」というのです。そのよう語って、ひたすら神の憐みを乞い、神が慈しみをもって臨んでくださることを願っているのです(3∼4節)。
人に対して犯した罪であっても、わたしたちは最終的には、神の御前でその責務を問われるのです。「借りは返しても、恩は返すことができない」と言った人がいます。人から借りた金品は返すことができるでしょう。しかし、その金品の借りたときに受けた恩は、ここまでしたからもう充分という限度はないのです。その意味で、返し切ることはできないのです。罪も同じです。罪の償いはできるかもしれません。しかし、罪を犯したという事実そのものに対して赦しを(特に神の赦しを)得ない限り、人は決して健やかに生きることはできないのです。そうであれば、わたしたちも神の憐みを求めるほかないのです。
主はその願いに対して、最終的には、独り子なる神をお遣わしになり、わたしたちの罪をすべて担わせて十字架にかけ、わたしたちの罪の裁きを受けてくださり、罪の赦しを賜わったのです。それならば、わたしたちは「打ち砕かれ悔いる心」(19節)をもって御前に遜り、「恵みの御業を…喜び歌い」(16節)つつ、自分自身を主に献げて生きるほかないのです。
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