この詩編は、4∼5節の言葉を使って言えば、信仰生活において大切であり必要な「知恵」「英知」「格言」「謎」(神の「奥義」という程度の意味)を伝えようとしていると言って良いでしょう。
その知恵、謎(奥義)とは、金銭の力はこの世では役に立ち、人々にも通用しるとしても、神の御前では通用しないということです。わたしたちは、どれほどの金を積んでも、御前での命を贖うことはできないのです。「魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない」(9節)とあるとおりです。「人は永遠に生き得ようか。墓穴を見ずに済むであろうか」(10節)ともあるように、どれほど人であっても、18節には「名誉」という言葉が使われていますが、その名誉があっても、それをもって墓に降る訳にはゆかないのです(18節参照)。どの者も、罪の故に陰府に堕ちるのです。
しかし、そのように陰府の中に堕ちるしかない者を、上記聖句のように、神は陰府から引き上げてくださるのです。魂を贖い取ってくださるのです。恵みの故です。わたしたちを憐れみ給うからです。主なる神は、そのことを、最終的には御子イエス・キリストをお遣わしくださることによって成し遂げてくださり、わたしたちを御前に生きる者としてくださったのです。わたしたちは御前では罪しかない者であり、それこそ陰府に落ちるしかなかった者です。そのわたしたちのために、御子は「多くの人の身代金として自分の命を献げ」(マルコ10:45)てくださったのです。
わたしたちは今や、その主イエス・キリストにおいて示された神の恵みの奥義を知る者とされているのです。ですから、その恵みに満ちた奥義への信仰を深めて、主こそ主と崇める生活を送るのです。
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