詩編45編は、一人の王の結婚を祝って歌われたものと言われています。「諸国の王女、あなたがめでる女たちの中から/オフィルの金で身を飾った王妃が/あなたの右に立てられる」(10節)という言葉が、そのことを示しています。オフィルというのは金産出で有名な土地でした。その土地の金の装飾品を身に着け、金糸や色糸で縫い上げた晴れ着を纏っている王妃(14∼15節参照)が、王に選ばれて、王の右に立てられたのです。そのような王の婚礼を喜び歌う世俗的な詩編が、聖書の正典に入れられたのです。その理由は何でしょうか。
7節では、この王のことが「神」と呼ばれています。しかし、歌われているのは一人の王です。王と言えども人間です。人間を「神」と呼ぶことは変です。それで、教会は、この「神」と呼ばれている王は、独り子なる神、主イエス・キリストのことだと理解したのです。実際、新約聖書のヘブライ1:8∼9は、イエス・キリストのことを言っている言葉として、この詩編45:7∼8を引用しているのです。そうです。この詩編は、教会では一種のメシア預言として読まれてきたのです。
だとすると、その王の右に立てられることになる花嫁とは、キリストの花嫁、即ちわたしたちの教会のことを言っていると理解してもよいでしょう。わたしたちは、キリストの花嫁に値しないにも拘らず、キリストがわたしたちを愛して、ご自身を十字架に渡すことでわたしたちを清め、聖なる者として御自身の花嫁としてくださったのです。そのことを覚えればこそ、主イエス様がわたしたちに仕えてくださったように、わたしたちも主に仕えるのです。何よりも主の御言葉に「耳を傾けて聞き」(11)、「父祖を継ぐ子らを生」(17)み、主イエス・キリストを賛美する者たちを増し加えていくのです。
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