詩篇42∼43(この二つは一つの詩篇)の著者は、「お前の神はどこにいる」(4,11節)と敵対する者たちから嘲られ、罵られているのです。バビロン捕囚のとき、捕囚民であるイスラエルはバビロニアの人々から「歌って聞かせよ、シオンの歌を」(詩137:3)と嘲られました。お前たちの信じている神に向かって賛美したって、どうせ助けてくれはすまい。お前たちの神はどこにも居やしないという思いを込めて、そのように罵ったのです。この詩人も同じような嘲りを受けているのです。そうであれば、うなだれ、呻かざるを得ません。上記聖句と同じ言葉が12節と43:5で繰り返されていることは、この詩人が置かれた境遇の深刻さを示しています。
しかし、そのようにうなだれ、呻かざるを得ない中で、それでもなお、自分の魂に向かって「神を待ち望め。/わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と」と語りかけ、主に対する信仰の告白をしようとするのです。どうしてそのことができたのでしょうか。それは、「思い起こ」(5,7節)したからです。主の招きの故に多くの者と共に神の家に入るを得、喜び歌い主を礼拝することができたことを(42:5参照)。砕け散る波がわたしたちを超えていく如くに、主の慈しみが、それによって自分が砕け散るほど激しく注がれており、命の神への祈りをなすことができていたことを(42:8∼9参照)。
この人に注がれている慈しみは、今や、主イエス・キリストにおいてわたしたちに注がれているのです。そのことを覚えて、どのような境遇にあっても、わたしたちも「御顔こそ、わたしの救い」と告白しつつ祭壇に近づき、神に賛美を献げ、神礼拝に生きるのです。
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