「このような暗い詩が、詩編の中にあることは驚くべきことである」と言っている人がいます。実際、この詩人は言います。「御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。/御前には、この人生も無に等しいのです。・・・ああ、人はただ影のように移ろうもの」(6∼7)と。そのような絶望的な状況に居るとき、人は、御手を差し伸べてくださるよう願い、御目に止めてくださいと願うものですが、この人は違います。「御手を放してください」(11)、「目をわたしからそらせ」(14)てください、と言うのです。この人は、主なる神に訴えることすら空しいことだと思うほど、絶望しているのです。
しかし、この詩人は、遂には上記の聖句のように「わたしはあなたを待ち望みます」と告白するに至るのです。正に、コペルニクス的転回と言ってもよいほどの、180度の転回です。そのきっかけは何だったのでしょうか。13節には「わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人」とあります。この「先祖と同じ宿り人」という言い方は、最古の信仰告白と言われている申命記26:5「わたしの先祖は、さすらいの一アラブびと」(口語訳)という言葉を思い出させます。そうです。イスラエルの民は、いずれは滅びゆくほかない、望みのないさすらいの民に過ぎなかったのです。しかし、神はそのような民を捕らえ、大いなる民としてくださったのです。そのことに気づいたとき、この詩人は、改めてその主に望みをかける決断をしたのです。
わたしたちは、主イエス・キリストの十字架において明らかになった、「決して滅びない」(Tコリント13:8)愛の中におかれています。そのことを覚えればこそ、どのようなときにも「わたしはあなたを待ち望みます」と言って、信仰生活を送るのです。
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