詩編38編は、七つある「悔い改めの詩編」の内の一つと言われています(他の六つは、詩編6,32,51,102,130,143)。罪の悔い改めをなすべきは、わたしたちです。しかし、わたしたちの罪を代わって担ってくださって、罪の裁きを受けてくださった方は、主イエス・キリストです。この詩編は、その十字架のキリストを指し示しているとも読み取れるのです。
勿論、これは、本来は「疫病にかかった」(12)一人の人が、その病の故の痛み、苦しみを呻き(9)、病の故に愛する友との交わりが途絶えたことを嘆いている(12)詩編です。そのようになったのは、神の罪に対する怒りの故であると思い、上記の2節の言葉のように、罪を告白し悔い改めているのです。
ところが、のちの教会は、12節の「わたしに近い者も、遠く離れて立ちます」という言葉が、ルカ23:49「ガリラヤから従ってきた婦人たちは遠くに立って、これらのことを見ていた」という言葉の基になっていると解釈しました。また21節の「わたしは彼らの幸いを願うのに/彼らは敵対するのです」に続けて「彼らは愛する独り子なるわたしを忌むべき死人のように投げ捨てられた」という言葉や「彼らはわたしの体を釘で打ち付けた」という言葉を付け加えている聖書もあるというのです(旧約聖書のギリシア語訳やコプト語訳など)。また15∼16節は「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きにある方にお任せになりました」(Tペトロ2:23)という言葉を彷彿させます。
主イエス・キリストこそ、わたしたちに代わって罪の裁きを受け、わたしたちを義なる者としてくださったのです。その恵みを覚えるときにこそ、わたしたちは、感謝をもって罪の悔い改めに生きることができるのです。
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