この詩編37編の著者は、「悪事を謀る者のことでいら立つな」(1節)と言い、7,8節でも同じようなことを口にしています。この詩人は、悪事を謀る者たちによって苦しめられ、絶望的な思いになっているのです。この詩編が冒頭にあるようにダビデの歌だとすれば、それは紀元前10〜11世紀ごろのことです。そのときから、悪事を謀る者がのさばっていたのです。否、ダビデの時代からだけではありません。創世記6:5∼6には「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって…心を痛められた」とあります。悪事を謀る者がこの世の支配者のようになり、この社会を牛耳るということは、世の初めからあったのです。
そのようなことを思うとき、わたしたちは、この世には望みがないと思って嘆くかもしれません。いらだって激怒したり、逆に自暴自棄になるかもしれません。しかし、わたしたちは忘れてはなりません、「主は彼を笑われる。/彼に定めの日が来るのを見ておられるから」(13節)という事実を。悪事を謀る者がはびこるとしても、永遠に続くのではありません。神が定め給うときが来れば、彼ら潰え去るのです。
この詩編は7節以下で「主に従う者」と「主に逆らう者」を対比させて、両者の行く末を明かにしています。前者は消え去り、滅びゆくことが語られ、後者は主に支えられ、「一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備え」(23節)られ、遂には主のもとからの救いに与ることが明らかにされているのです(39節参照)。その事実が、既に主イエスにおいて、わたしたちに及んでいるのですから、冒頭の聖句のように「主に信頼」し、自らを主にゆだねるのです。おのが道を主にまかせて歩んでゆくのです。
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