光がなければ、わたしたちには何も見えません。神を見、神を知るのにも、光が必要です。それは、単なる光ではありません。神の光です。神の光によって、わたしたちは神ご自身と御心を知ることができるのです。神は、わたしたちに御心を知らせるために、光をもってわたしたちに臨み給うのです。
それならば、神の光が示してくださる神の御心とはどのようなものでしょうか。この詩編の言葉を使えば、「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。/恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵」(6∼7節)という事実です。この「慈しみ」とか「真実」は神の契約に関する言葉です。また「恵みの御業(義とも訳せる)」や「裁き」という字は、その契約の内容に関わるわたしたちの救いの事実です。神はわたしたちの罪を裁いて義としてくださり、わたしたちを御前に立つことができるようにしてくださっているのです。もう少し丁寧に言えば、神は慈しみの故に、わたしたちと《神とその民》という契約を結び、その契約を貫き通してくださるのです。その点で、神は少しも変わることはなく、真実であられるのです。
実際、その神の契約における真実を、神は遂には御子イエス・キリストの派遣と十字架において成し遂げ給うたのです。そのようにして、その事実が、わたしたちにも及ぶようにしてくださっているのです。わたしたちの側では、この詩人をもそうであったように、様々な誘いや苦難が振り掛かり、神の恵みの御業を見失いかねませんし、神の契約に不信を抱き、躓きかねないのです。しかし、神の側では契約の真実を変えることはないのです。
そうであれば、その光によって照らし出されている主キリストにある救いの事実を、まっすぐな心(11節)で受け入れていくのです。
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