この詩人は、「あなたの正しさを歌」うことになることを願っています。自分の正しさが証明されて、自分が喜ぶことになることをねがっているのではありません。神の正しさ、神の義が明らかにされ、神が神として臨んでくださっていることが明白になること願っているのです。
わたしたちは困窮の中に陥ると、神は本当に生きて働き給うのかと思って、神を罵りかねません。そのように神を罵って、自分の困窮、苦難の解決を願うのです。自分が立つことが先で、神は二の次、三の次です。しかし、ほんとうに大事なことは、義なる神が主権をもって臨まれることです。そしてその統治が行き渡ることです。そこでこそ、罪が罪として裁かれ、義が義として立つことになるのです。この詩人は、そのことを願っているのです。
この詩人も苦難の中にあり、命を脅かされています(4∼8)。敵対する者たちが、無実である詩人に対して(7,19)、不法の証人を立てて滅ぼそうとしています(11〜12)。その人々は、実はこの詩人が以前、愛と慈しみをもって関わっていた人々でした。その者たちに寄り添い慰め励まし、祈っていたにも拘らず、彼らはこの詩人を訴えるのです。そのような理不尽な仕打ちの中でも、この詩人は「主よ、あなたは御覧になっています」(22)と言い、主を信頼し続けます。「わたしの主よ」「わたしの神、わたしの主よ」(22∼24)と、主なる神が自分の主また神として臨んでくださっている事実に立っているのです。
そのような在り方は、イエス様を思い起こさせます。イエス様は、愛をもって臨んでくださった者たちによって十字架につけられました。その十字架において、自分を責め苛む者の罪の裁きを担い、義とし給うてくださったのです。そのことを覚えて、わたしたちも主の正しさを歌うのです。
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