上記聖句の「目を留められる」という字は、「摂理」という字の元になった字であると言われています。摂理とは、神の御支配、統治、保持のことです。神は天と地、そしてわたしたちに人間など、すべてをお造りになりました。そのことは、この詩編33:6「御言葉によって天は造られ/主の口に息吹によって天の万象は造られた」という言葉を読んでみても分かるでしょう。しかし、神は御言葉によってすべてを造っただけで、後は何もなさらなかったのではありません。ご自身がお造りになったものすべてを見渡し、ひとりひとりをご覧になり、その歩みに目を留めて、ご自身の恵みの御手の内において支配し、導き給うてくださっているのです。
16〜17節の言葉は争いを想定させます。19節の「死」「飢え」という言葉からは干ばつや飢饉による命の危機も想定できます。今日も戦争はつきませんし、それに伴い食料品等の高騰により生活の困難に遭遇しています。人間関係における渇きも覚えることもあるでしょう。しかし、そのような様々な問題の中にあっても、主はわたしたちに目に留めて守り導き給うのです。
この詩編では「慈しみ」という字が三度使われています(5,18,22節)。これは契約における慈しみのことだと言われています。神は「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」という契約を慈しみの故に結んでくださったのです。その慈しみを示すために神はわたしたちを創造なさり、更には創造なさったものを何があっても守り給う事実を示すために、慈しみをもって臨んでくださっているのです。正に神は真実です(4節参照)。その真実な慈しみの中に置かれていることを覚えるからこそ、わたしたちは、「新しい歌を主に向かってうた」う(3節)のです。
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