「人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします」(13節)とあるように、この詩人は人々から、「死者のように」「壊れた器」のように見なされているのです。それほど邪険にされているのです。邪険にされるのであればまだよいでしょう。こなごなに「壊れた器」なら、わたしたちならどうするでしょうか。修復などしようとは思わないでしょう。殆どの人は、ゴミとして捨てるでしょう。貴重な物なら残念に思うかもしれませんが、やがて、その物への関心も失せるでしょう。「死者」の場合も、基本的には同じです。その死者が嫌いな存在であれば、なおのこと、いなくなってよかったと思うに違いないのです。少なくとも、悲しみとか痛みは覚えません。この詩人は、そのような扱いを受けていたのです。もはや人間扱いではありません。ですから、「わたしは苦しんでいます。/目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます」(10)と嘆くのです。
しかし、そのような中にあっても、この人は、上記15節のように、「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し…ます」というのです。この詩人は、その言葉に続けて、「わたしの時はあなたのみ手にあります」(16,口語訳)と言っています。すべての時は主の御手の内にあるということは、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11,口語訳)ということへの信頼でもあります。虐げを受け、苦難もあるでしょう。ゴミ扱いされ、存在価値も認めて貰えないので、力は失せ、骨も衰えていでしょう。しかし、主の御手の内に置かれているのです。その恵みの事実が、自分の人生のすべての時に及んでいるのです。だから、「主をたたえよ」(22)と言って、主の驚くべき慈しみの御業を賛美できるのです。それが、わたしたちの信仰生活でもあります。
|