上記聖句を「怒りにおいて束の間/恵みの御心において、長い命と共に」と訳している人がいます。神は義なる神です。ですから、主なる神が御顔を隠されるような不義をわたしたちが為したら、恐怖に陥ることになるのです(8節参照)。しかし、主なる神は、十戒において「父祖の罪は…三、四代までも問うが、わたしを愛…する者には…幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と語っているとおり、わたしたちを救わんとする御心において遥かに勝っているお方なのです。また、その御心こそが不変なのであり、その意味で神は真実なる神であられるのです。
「平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と」(7節)とあるように、平常時は、わたしたちも主なる神への真実をもって関わるかもしれません。しかし、ひと度、事が起こると、「わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょうか」(10節)と、神が守ってくださっていないかのように思って、主の憐れみの無さを嘆き訴えるのです。
しかし、繰り返しますが、主は慈しみ深きお方です。「わたしが死んで墓に下る」ことがないようにと祈る前から、「わたしを引き上げ・・・/墓穴に下ることを免れさせ/わたしの命を得させてくださ」(2∼4)っているのです。それほど、わたしたちは神の変わることのない愛の内に居るのです。「主の慈しみに生きる人よ」(5節)を、「不動の愛に生かされている人々よ」と訳している人がいますが、その通り、わたしたちは主の不動の愛の内に居るのであり、恵みの御手によっていつも掬い上げていただいているのです。そのことを覚えて、わたしたちも、「わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます」(13節)とあるように、絶えることなく、御名を称える唇の実を神に献げるのです。
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