「わたしの命を流血を犯す者の命と共に/取り上げないでください」(9)という言葉で分かるように、この詩人は命を奪い取られかねない危難の内にいるのです。その危難が具体的にどういうものであるのかは、定かでありません。「偽る者,欺く者(魔術に関わる人々?)」(4)、「祭壇を廻る」(6)、「感謝の歌声」(7)、「聖歌隊と共に」(12)などの用語があることを思うと、祭儀的な問題で訴えられていたのかもしれません。10節の「汚れた行い」とは性的非行のことですが、それが偶像礼拝と繋がっているとすれば、祭儀的な点で神を冒瀆しているという疑いをかけられ、攻撃されていたのかもしれません。
それに対して、この詩人は「主よ、あなたの裁きを望みます。/わたしは完全な道を歩いてきました。/主に信頼して、よろめいたことはありません」(1)と言い、更に「はらわたと心を火をもって試してください」(2)とも訴えます。「火をもって試す」というのは、具体的には火による精錬を意味していますが、そのように徹底した検査をしたとしても、「はらわたと心」即ち全人格が一途に神に向かっていることが明かになるだけであり、神との関係が歪んでいたり、損なわれているという結果が出るはずがないということを、この人は主張しているのです。
同じ趣旨のことが冒頭に記したように11〜12でも繰り返されています。そのように語るのは、神の方で自分のことを捉えているという事実を訴えたかったからでしょう。神が捕らえてくださり、主の慈しみが目の前にある(3)からこそ、自分はまっすぐな道に立つことができているということです。キリスト者はだれもが、主に「捕らえられている」(フィリピ3:12)という恵みの事実を知ればこそ、一途な信頼をもって信仰生活を送ることになるのです。
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