この詩編の7節以下は、神の箱がエルサレムの城門を通って、神の宮である神殿に運び込まれるとき、祭司たちによって、或いは祭司と会衆とによって交唱されたものだと言われています。神の箱は神の臨在を示すものです。それが入って来るということは、神がそこに現臨なさるということです。その神は、「大海の上に地の基を置き…世界を築かれた(2節)」創造者なる神であり、「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むもの」(1節)をご自身のものとして統べ治め給う統治者なる神です。その真の主権者である神が、神の宮(神殿)に臨在するのです。そこで、私たちは神と出会うことができるのです。
今や主なる神は、神の箱ではなく、独り子なる神・主イエス・キリストにおいて人となり給うて、私たちの所に来られました。更には十字架に掛かり罪を贖ってくださって、栄光に輝く万軍の主と出会うことができるようにしてくださったのです。そのような恵みの事態が、私たちに及んでいるのです。
そうであれば、その主が臨在くださる聖所(教会)に赴くに際して、「潔白な手と清い心をもつ」(4節)ことが願われます。それは、単に手洗いをするとか、邪念を振り払うことではありません。この「清い」という字は、「濁ってない」という意味です。湖底まで見通せる澄んだ湖のように、主に向かっている心が心底まで変わることのない一途さのことです。その清さ・一途な思いで主の御顔を尋ね求め、主を礼拝するのです。更に言えば「むなしいもの」(4節)即ち偶像礼拝に陥らず、「わたしをおいてほかに、神があってはならない」という十戒の第一戒に生きるのです。そのように、主なる神をこそ万軍の主として迎え入れ、礼拝するのです。その者をこそ主は祝福なさるのです。
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