上記の言葉で始まったこの詩編は、「御力を表される主をあがめよ。/力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌を歌う」(14)という言葉でもって終わります。この詩編も20編と同様、王の詩編と呼ばれていますが、この王は、そのように「主」の「御力」によって、初めから終わりまで囲まれているのです。実際、この王には人の思いを超える祝福が及んでいることが歌われています。特に、3∼8節では、黄金の冠、長命、長寿(すなわち長期政権)、栄えと輝き、永遠の祝福への言及があり、「いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない」(8)という言葉で締めくくられます。この王は、主なる神からの絶対的肯定の中にいるのです。「この詩人は破れの無い神関係において神を知っている…、初めから肯定における神を知っている」(関根正雄)と言われているとおりです。」
この王だけではありません。本来は、わたしたちも、「初めから肯定における神を知ってい」たのでり、「破れの無い神関係」の中にあったのです。天地創造を終えた神はお造りになった被造物をご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と仰せになったのです。わたしたちは、極めて良いと神ご自身が仰せになるほど、豊かな祝福の内にあり、絶対の肯定の中にあったのです。しかし、わたしたちは罪を犯して、神とは「肯定」の関係ではなく、「破れ」の関係へと、堕ちるのです。
そのわたしたちを、主なる神は、独り子なる神、主イエス・キリストを十字架に掛けるという高価な代価を払って買い取って御自分のものとし、わたしたちの内に主ご自身が宿るほどになってくださったのです(Tコリント6:19∼20参照)。そのことを覚えれば、主の恵みの御業を、しみじみと喜び噛みしめて「喜び祝い」、小躍りして「喜び躍」りつつ、主をあがめるのです。
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