「詩編150編中、偉大と呼ばれるものは少なくないが、この詩編ごときは最も偉大なるものの一つである」と言っている人がいます。しかし、この詩編は何を語っているのでしょうか。自然讃美でしょうか。被造物を通して神の創造の御業を知り得るということでしょうか。
実は、この詩編は1∼7節と8節以下の二つに分けることができます。後半は「律法」「主の定め」「命令」「戒め」などという用語が主語になっていることからも、律法である御言葉とその主を賛美していることは明らかです。前半は「天」「大空」、「昼」「夜」が主語になっていますので、被造物を通して神の御業を知り得ることを歌っているように思います。しかし、丁寧に読んでみると、前半部分で使われている動詞(物語る、(告げ)示す、語り伝える、知識を送る)は、主語として「言葉」を連想させるものばかりです。そのことを踏まえると、この詩編全体が、神の御言葉への讃歌であると言ってもよいのです。
8節以下にあるように、御言葉こそが、魂を生き返らせ、知恵を与え、喜びと光を与えてくださるのです。御言葉は純金にも勝り、蜂蜜よりも甘いと言われるほど、わたしたちの信仰生活を健やかに導いてくれるのです。だから、主への畏れをもって御言葉に聞くのです。宗教改革者たちが「聖書のみ」と主張したように、わたしたちも御言葉によってこそ教会が立ち、わたしたちの信仰が健やかになることを覚えて、御言葉にこそ留まるのです。
御言葉に聞く生活をしていても、勿論、「知らずに犯した過ち、隠れた罪」(13)を犯すこともありますし、「驕り」(14)も日常的に起こり得ます。そうであればこそ、かえって、「口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれ」るよう、造りかえられることを願って、主の許に立ち帰り御言葉に聞くのです。
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