この詩編の特徴は、嘆き(3∼5節、9∼12節)と訴え(1∼2節、6∼8節、13∼14節)が繰り返される所にあります。この人は、神が火を持って心を調べても汚れた思いは何ひとつないほど、主の唇の言葉を守り、暴力の道も避けているのです。それだけ、何のやましい所もないのです(3∼5節参照)。にも拘らず、「逆らう者がわたしを虐げ」(9節)、「包囲し、地に打ち倒そうとねらっています」(11節)とあるように、謂れなき攻撃を受けているのです。そうであれば、この人は訴えます。訴えずにはおれません。「祈りに耳を向けてください」(1節)、「公平に御覧ください」(2節)と、繰り返し「〜してください」と訴えるのです。全部で12回繰り返されています。
そのように何度も繰り返すほど、この人を取り巻く状況は深刻だし、窮状も切実だと言うこともできるでしょう。しかし、見方を変えれば、いくら切羽詰まった中とは言え「〜してください」と繰り返すのは如何なものかと言って、この人の信仰は《請求書の信仰》にすぎないと批判する人もいるのです。確かに、わたしたちがどのようになっても、主の恵みは変わりません。主イエスを三度も知らないと言ったペトロに対しても、主は愛の眼差しを注ぎ続け、伝道者の道を開いてくださいました。それほど愛し給うてくださっていたのです。そのような恵みを受け取っていることへの感謝を、わたしたちは忘れてはなりませんし、その恵みを感謝をもって受け入れる、言ってみれば《受領書の信仰》に生きることが願われるのです。
この詩人も、実は、最後にその信仰に戻ります。「目覚めるときには御姿を拝して/、満ち足りることができる」(15節)と語って、恵みの充満の中に置かれていることを感謝するのです。それが、わたしたちの信仰でもあります。
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