「主はわたしに報いてくださった」と言える人は、どれほどいるでしょうか。一所懸命したのに、徒労に終わり何の報いもなかったと思うのが、わたしたちの現実ではないでしょうか。この詩人が置かれている状況は、4節の言葉で分かるように、死に瀕していたと思われます。更に5節には「敵が勝ったと思うことがないように」とありますので、敵の勝利が、ということは自分の敗北が、ほぼ決まっていると言っても良いような中に居ると言って良いのです。そのよう状況は、長く続いていました。執念深い攻撃にあっていたのでしょう。そのことは、この人が2∼3節で「いつまで」と四回にも亘って問うていることから分かります。そうであれば、動揺を隠せないときも少なくなかったでしょう。「敵が…/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように」(5c)という言葉は、そのことを示しています。
しかし、そのような人生を過ごしてきたにもかかわらず、彼は「主はわたしに報いてくださった」と言いえたのです。何を根拠にして、そのように告白、讃美できたのでしょうか。
「報いる」と訳されている字は、「手を伸ばす」という意味でもあると言われます。神が御手を伸ばしてわたしたちを守ってくださるのです。だから、口語訳は「豊かにあしらう」と訳していました。丁重にもてなしてくださるということです。その分、神の恵みの支配の許に置いてくださっているのです。ペトロがイエス様の許可を得て湖の上を歩き始めた時、荒ぶる波を見て恐れ沈みかけました。そのとき主イエスは、御手を伸ばして彼を支え給うのです。そのような支えの御手が、わたしたちにもいつも差し伸ばされているのです。その恵みの事実の故に、わたしたちも6節のように神を賛美するのです。
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