この詩編は「主を、お救いください」(2)という哀願に始まり、「主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき」(9)という哀歌で終わっています。そのような哀歌を口にせざるを得ないような中に、この詩人はいるのです。それは、わたしたちキリスト者を取り囲んでいる現実でもあります。
わたしたちを責める者たちの特徴は「滑らかな唇、二心」(3)です。「滑らかな唇」とは、「二心」と併記されていることから分かるように、へつらい、お世辞を言うということです。5節の「自分の唇は自分のためだ」を、「我、我が唇と共に」と訳している人がいますが、無論「神、我等と共に」を
捩
った訳し方です。神がわたしたちと共いるので、神を信じ讃美礼拝するのではありません。自分の唇が、その唇が語る言葉が、その言葉を語る自分自身が主なのです。心の中では、そのように自分自身を神にしているのです。そのような人々に取り囲まれ、あらぬ中傷を受けて信仰を失う、或いは失いかけるという現実が、わたしたちにもあるのです。
そのような中で主のお言葉が響きます。「今、わたしは立ち上がり…救いを与えよう」(6)と。今や主が立ち上がってくださるのです。実際に、主イエス・キリストはゲッセマネの園で祈り終えた後に、「立て、行こう」(マルコ14:42)と仰せになって、十字架に向かいました。その主の十字架の死によってわたしたちの罪は贖われ、わたしたちは罪に死んで、神の御前に生きる者とされたのです。「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているものだと考えなさい」(ローマ6:11)とパウロが言っている、その言葉に何があっても固く立ち、御名を称えて歩んで参りたいのです。
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