上記聖句では、「主」「わたし」「避けどころ」の三つの単語だけで成り立っています。その分、この三つの言葉が強調されているのです。
まず「避けどころ」です。これは「拠り所」「守護者」という意味で、動詞になると「信頼する、拠り頼む」となります。日本では殆ど聞きませんが、海外では自分専用のシェルターを持っている人が少なくないと言います。いざと言うときにはそこに逃れて、身の安全を確保するのです。そのような拠り所、守護者が自分にはある、そのお方は「主」である、とこの詩人は言うのです。権力でも財力ではない、主こそが、主だけが避け所であるというのです。人々は、「世の秩序が覆っているのに」主に信頼したって無駄だと言います(1c∼3節)。そのように他の人はどうか分からない、しかし、「わたし」は「主」をこそ「避けどころ」とする、とこの詩人は語り、主に対する信頼を表明するのです。
その信頼の表明には根拠があります。それは、「主は天に御座を置かれる。/御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べ/主は、主に従う人と逆らう者を調べ」(4∼5節)るとあるように、主に従う人と逆らう人とを区別するほど、わたしたちをきちんとご覧になっているという事実です。
そうです。わたしたちの方からは主は見えないかもしれません。しかし、主は生きて働き給うて、主の御目はわたしたちに届いているのです。丁度、曇天でわたしたちには太陽が見えなくても、その雲を突き抜けたその上には太陽が燦然と輝いているのと同様です。主は天にいまし、すべてをご覧になり、わたしたちをもご覧になって守り給うてくださっているのです。
「主は…御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」(7節)のですから、わたしたちも眼を上げて主を真っ直ぐに見上げ、主にこそ信頼し、避けどころとして信仰生活を送るのです。
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