この詩人は、「主よ、なぜ離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか」(1節)と訴えています。この人を責め立てる者については、3〜11節にあるとおりです。「神に逆らう者は…/主をたたえ称えながら、侮っている。/…何事も神を無視してたくらむ」(3∼4節)。彼は表向きは神をたたえてはいますが、本気ではありません。心の中では神を侮り、無視しているのです。
前任者の白井正之先生は罪について、それは〈
傍若無人
〉ならぬ〈
傍
若
無神
〉ということだとお話しになったと聞いています。正にこの詩人を責め立てている者は傍若無神です。実際「裁きは彼にとってあまりにも高い」と5節にあるように、この者にとって神の裁きなど高い雲の上のそのまた上の話しであり、自分とは関係ないことなのです。だから、この詩人は思います。本当に神は生きて働き給うのか、と。その思いが言葉になったのが、「主よ、なぜ離れて立ち…」(1節)であります。そのような嘆願、呻きを口にするしかないほど深い苦難の中に、この人はいるのです。
しかし、その調子が14節で突然変わります。上記のとおりです。この14節の言葉は「あなたは確かに見ておられ、確かに守ってくださっている」という確信の言葉です。何があったのか分かりませんが、今迄の嘆きが、突然確信に変わるのです。信仰生活にはそういうことがあります。御言葉を聞き続ける中で、確かに主はわたしたちを御覧下さり、御手によって掴んでくださっていると確信できるようになるのです。主イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15:4)と仰せになりました。主が御手を差し延べてわたしたちと繋がっているのですから、わたしたちも手を伸ばして御手を掴むのです。その双方向の働きが信仰生活を支えるのです。
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