「わたしの神、主よ」
(2節)は、神の自己紹介の言葉と言われている「わたしはあなたの神、主であって」(出エジプト20:2、口語訳)に対応している呼びかけです。神が御自身の方から自己紹介なさるのは、神が恵みをもってわたしたちに交わりの御手を差し伸べておられるからでしょう。この詩人も、既に神との交わり、守り、助けの中にいるのです。どんな困難の中にあろうとも、誰も分かってくれない、味方になってくれないと思えるような状況に置かれることになっているとしても、既に御手の内に置かれていることを知っているのです。だから、「わたしの神、主よ」と呼びかけるのです。
実際、この詩人はいわれなき告発を受けていました。もし、自分の手に不正があり、仲間に災いをこうむらせるようなことがあったなら、自分の命が踏みにじられ、誉れが塵に伏せられることになるのも当然であると言うほど、自分の正しさを確信しているのです(4∼6節)。そうであればこそ、主に正しい裁きを懇願しているのです(7節以下)。しかしそれは、単に、自分の正しさが立証されることを願ってのことではありません 。わたしたちに先立って交わりの御手を差し伸べてくださっている神の義が立つことを願っているのです。そこでこそ、自分の正しさも明らかになると信じているのです。
わたしたちは、この詩人のようにいわれなき非難を受けたとき、自分の正しさが立証されることだけを求めがちです。自分だけが立ちさえすればよいと思っているのです。しかし、願われることはいつも、まず神の義を求めることです。神が義なる神として立つ時、自ずとわたしたちの正しさも明らかになるのです。「まず…神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)という御言葉を、いつも心に留めたいものです。
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