主なる神は「逆らう者を喜ばれる」(5節)ことはありません。「誇り高い者(傲慢な者)…はすべて憎まれます」(6節)。更には「口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵」(10節)と言われているように、罪そのものを厭い給うのです。そのような罪の中にある人々がこの詩人を苦しめているのですが、考えてみれば、わたしたちも元はと言えば、その罪の内にあったのです。10節の言葉は、罪の内にあるわたしたちのことを語っているローマ3:13に通じるものがあるという、その一事だけでも分かります。わたしたちは、この詩人が、それらの者の滅びを願うような罪の内にあったのです。
しかし、そのわたしたちも、上記聖句にあるように、今や主なる神の家に入り、聖なる宮に詣でて、主を礼拝することができるのです。それは、主の深い慈しみをいただいているからです。わたしたちの存在の根源には、主の「深い慈しみ」があるのです。この詩人はいつどのような仕方で、その深い慈しみをいただいていることを知ったかは定かではありません。しかし、わたしたちの場合は、明らかに、独り子なる神の十字架の死による罪の贖いによって、その慈しみの事実を知ることができるのです。「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを…現そうとされたのです」(エフェソ2:7)と記されているとおりです。
そのことを覚えれば、わたしたちも「朝ごとに」(4節)主に向かって祈るのです。その日の朝が、健やかな目覚めの朝であろうと陰鬱な思いに沈み込まざるを得ないような朝であろうと、そのようなわたしたちの側にある事情の如何に拘わらず、「わたしの王、わたしの神」(2節)に向かって、変わることなく祈り、礼拝し続けるのです。それが信仰者の姿であります。
|