遂に、神は嵐の中から、直接ヨブに語り掛けます。圧倒的尊厳と権威をもって、神は真っ向からヨブに相対するのです。主なる神は、相手がどれほど小さく、どれほど反抗的であっても、神は御自身の全人格をもって臨まれるのです。それなら、わたしたちも自分の全人格をかけて応答するのです。「男らしく、腰に帯を」するということは、そういう意味でしょう。
神が問うているのは何でしょうか。38章は、主に天地創造の御業について語られて、そのときおまえは何処にいたのか、神の御業を見ていたのか、「知っていたというなら…言ってみよ」(38:4、18等)と語り掛けられるのです。39章では、様々な被造物に言及し、それらの物たちの在り様をヨブが指示できるのかと問うのです。勿論、ヨブは何も知らず、何にもなし得ることはありません。被造物についても、彼らのほんの一つの動作でさえ制御できようはずはありません。以前ヨブは、神と論争したとしても「千に一つの答えも得られないだろう」(9:3)と言っていましたが、正に然りです。わたしたちは主なる神の御前では無知蒙昧であるのです。それにも拘らず、神はわたしたちを肯定し受容してくださっているのです。それは、わたしたちが苦難の中にあったとしても変わることが無い恵みの事態であるのです。
そうであれば、わたしたちは自らの貧しさを知り、主なる神の御前に沈黙せざるを得ないのです。だからヨブも「わたしはこの口に手を置きます」(40:4)と語ったのです。わたしたちも、「静まって、わたしの神であることを知れ」(詩編46:10口語訳)という御言葉に、真剣に聞く必要があるのです。
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