ヨブは、29章で過去を振り返り、「神に守られ」、「
灯
…光に導かれて…暗黒の中を歩いた」こと、「神との親しい交わり」の内にあったこと、「全能者はわたしと共におられ」たこと等を明らかにします(3∼5節)。更にその祝福に与ったのは、「わたしは正義(「憐み」とも訳せる)を衣として身にまとい、公平はわたしの上着…となっ」(14節)ていたからだ、とも言っています。
しかし、30章に入ると、そのような過去の繁栄や祝福が皆失せ、嘲弄、嘲笑が浴びせかけられるだけでなく、病の苦難による悲惨な現実が、自分を取り巻くようになっていることを嘆いています。そのようになったのは、「神よ/わたしはあなたに向かって叫んでいるのに/あなたはお答えにならない。/御前に立っているのに、あなたはご覧にならない。/あなたは冷酷になり/御手の力をもってわたしに怒りを表され」(20∼21)ているからだ、と訴えているのです。更に31章では、12項の罪を挙げ、自分はそれらの罪を犯してはいない、もし犯していたらそれ相応の裁きを受けても良いと主張すると同時に、そのような罪を一つも犯していないという事実を、神よ、どうかしっかりと聞いてください、ご覧になってくださいと訴えるのです。
そのように、彼は過去の事実と今の現実とを注視し、そこに留まります。しかし、そこには望みも救いもありません。望みや救いは主にあります。自分の行動や徳や品性によって、上記の言葉を使えば、自分の憐みや公平な在りようによって救いを獲得するのではなく、主なる神の憐みと愛とによって救いに与るのです。必要なのはその主を見ることです。主なる神の憐みと恵みにより頼むのです。その一事が肝心です。「あなたに欠けているものが一つある」(マルコ10:21)とイエス様が仰せになったその一つとは、その一事であるのです。
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