上記はヨブの友人のひとり、ビルダドの言葉ですが、それに類した言葉は既に他の友人によっても語られています。「人が神より正しくありえようか。/造り主より清くありえようか」(4:17)、「どうして、人が清くありえよう。/どうして、女から生まれた者が/正しくありえよう」(15:14)等です。ヨブ自身も「神より正しいと主張できる人間があろうか。神と論争することを望んだとしても/千に一つの答えも得られないだろう」(9:2∼3)と語っていました。それは、ヨブとその友人たちとの対話において語られているだけではありません。聖書のあちこちで語られているわたしたちの真相です。
詩編24:3∼4に「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。/それは、潔白な手と清い心を持つ人。/むなしいものに魂を奪われることなく/欺く者によって誓うことをしない人」とあります。むなしいものとか欺く者とは偶像のことですが、そのように、主以外のものを頼みとすることやめて、御前に伏し一途に主を求める人が御前に立ち得るのですが、そのような意味で御心に適う者は一人もいないのです。
わたしたちは皆、御前では「蛆虫…虫けら」にすぎません。そのフレーズは詩編22:7にも出てきますが、そこの7∼9節の言葉は十字架の主を思い起させます。主イエスは、蛆虫、虫けらと呼ばれるわたしたち罪人と同じになり、罪の裁きを受けて罪の贖いを果たしてくださったのです。御前に立つを得るのは十字架の主によることを認めて、すべての人が「御もとに立ち帰り…主にひれ伏し…御前に身を屈め」(詩編22:28∼30)るのです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」(詩編51:19)という言葉を、心に留めましょう。
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