ヨブは神にお目にかかり、「その方にわたしの訴えを差し出し/思う存分わたちの言い分を述べたい」(23:4)と願っています。そうしたら、「わたしは神の前に正しいとされ/わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう」(同6∼7)と思っているのです。しかし、上記聖句のように、神は東西南北どこを探しても、どこにもいまさないのです。神は身を隠しておられ、更には遠く離れておられる、と思わざるを得ないのです。だから、再び不満を口にします。「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。/なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか」(24:1)と。つまり、悪しき者がいつまでも栄えているのに(例えば24:13以下)、神を愛する者は顧みて貰えない、不公平ではないかと訴えているのです。彼には神の思いが分からないのです。御心が理解できないのです。否、彼だけではありません。わたしたちにとっても神は、遠く離れた存在であり、その御心が分からず、戦慄的神秘(畏怖)を覚えざる得ない『聖なるもの』(ルドルフ・オットー)であるのです。
しかし、その聖なるお方は畏怖をもって臨むだけではありません。わたしたちの想定をはるかに超えてわたしたちに近づき給う程の魅力的神秘を持ち給うお方でもあります。現に、神はエジプトで苦難を受けていた民を救い出すために、天の高みから降って来られたのです(出エジプト3:8)。そして今や神は、独り子なる神において、わたしたちの所に降り給うてくださって、わたしたちがどれほどの不条理の中に生きることになるとしても、なおご自分の民とし、永遠の生命を持ち給う者としてくださっているのです。ヨブがそのことを知るに暫時の時を要しますが、既に彼もその御手の内にあるのです。
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