「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ/言葉をもってわたしを打ち砕くのか。/侮辱はもうこれで十分だ」(19:2∼3)。ヨブは友人たちにも激しく非難され、どこにも出口がないということを感じます。神さえも「わたしの周囲に砦を巡らしている」(6)ので、まったく絶望の中にいることを深く覚えることになったのです。
しかし、それはヨブに限ったことではないでしょう。ヨブはこの後の23節で「わたしの言葉が書き留められるように/碑文として刻まれるように。/たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され/いつまでも残るように」と言っています。これは、エレミヤ17:1∼2にある、わたしたちの罪について文言を思い起こさせます。「ユダの罪は/心の板に、祭壇の角に/鉄のペンで書きつけられ/ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて/子孫に銘記させるものとなる」。わたしたちの罪は、心の板や祭壇の角にダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、決して消し去ることが出来ないほど深く、絶望的なのです。ヨブは、神の攻撃により、友人たちの侮辱をとおして、それほどの罪の内にある自分を認めざるを得なくなります。自分の側には、もはやまったく望みはないのです。御前に罪を認めて伏すほかないのです。しかし、そのように自分の側に何もないことを知ったとき、自分がそれでも立ち得ることが出来るとすれば、贖い主である主の恵みによるだけであるのです。ヨブはそのことを示されることになり、だからこそ上記の聖句のように語り得たのです。
誰一人として、非のうちどころの無い者はいません。その者がなお御前に立ち得るとすれば、主イエス・キリストの贖いの御業によってです。「わたしを贖う方は生きておられる」、その主に縋るしか、御前に立ち得る術はないのです。
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