ヨブの三人目の友人たちとの対話は二巡目を迎えます。エリファズは初回とは違って、かなり厳しい叱責の言葉を語ります。ヨブの言葉は「空虚な意見」「無益な言葉」「役に立たない論議」(15:2∼3)であると言って一蹴します。自分は神と対等に立ち得ると驕り高ぶることを非難し、そのように神を信じない者の運命を明かにします。
ヨブの対応はむきになって反論していた一度目に比べると、少しは客観的になっています。基本的には、自分を責めている者に批判的であることには変わりはありませんが、その中でも神から離れることはしないし、離れることが出来ない自分を知っているのです。「わたしの手には不法はなく/わたしの祈りは清かった」(16:17)。「不法はない」は第二イザヤ(イザヤ53:9)に見られるような従順を指し、「清かった」という字は一途さを示しています。仮に神に敵対しているかのように見えたとしても、自分は、結局は神により頼まざるを得ないし、一途に主への祈りに生きる他ないということでしょう。
だからこそ、天に証人、弁護者、執り成し手がいれば(否、実際に居るはずだが)自分の正当性は認められるし、受け入れられるに違いないという確信を持つことが出来るようになっているのです(上記聖句参照、17:3も参照)。彼は自分の正しさに逃亡しそこに留まろうという姿勢から、神に逃亡し、神の真実に留まろうとしているのです。信仰とは、自分の真実に立つことではなく、神のアーメン(真実)に、アーメン(然り)と言って留まることです。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼(キリスト)は常に真実である」(Uテモテ2:13,口語訳)。そのキリストに留まるのが信仰生活です。
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