ヨブの三人目の友人ツォファルは、今迄のヨブと友人たちの会話を聞いて苛立ちを覚えたのか、激しくヨブを攻撃します。いくらヨブ自身が潔白だと思っていても、神は全知全能であり汚れたところを見抜かれるのだから、その主なる神に抵抗するのではなく神に縋れ、そうすれば晴れ晴れと顔を上げて歩むことができるようになるであろう、と迫るのです(ヨブ記11章)。
ヨブは、そんなことは充分承知している、と反論します(12章)。彼にとっての問題は、むしろ神と直接対話できないことです。「わたしの上から御手を遠ざけてください。/御腕をもって脅かすのをやめてください」(13:21)とあるように、ヨブは、神が妨害して語ることが出来ないようにしている、それだけヨブの発言を封じていると思っているのです。だからこそ、「神の前に」出て、神の「御顔」と顔を合わせて呼びかけを受け、それに応えたいと願っているのです(13:20以下)。ヨブの苦難の核心は、皮膚病から来る肉体の痛みではないし、家族や財産を失ったことから来る悲しみでもないのです。そういう苦しみをよりも、神と相対して語ることが出来ないし、また神も答えてくださらないことなのです。それがヨブの苦難の根源にあるのです。
苦難の中にあって神に祈るが何の答もないということは、わたしたちもしばしば経験することです。いわゆる「神の沈黙」です。しかし、そのような神の沈黙を思うとき、最も深い神の沈黙を味わってひとり十字架で苦難を受けた主キリストを覚えます。その主を仰ぐとき、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ発揮される」(Uコリント12:9)と雄弁に語られているのを、わたしたちは聞くことが出来る幸いを得ているのです。
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