ネヘミヤの働きによってエルサレムの城壁再建は成り、奉献式も終えることができました。見事に務めをなし終えたかに思われます。しかし、聖書に登場する人々はどの人もそうですが、有終の美を飾っている人はいないのです。ある人は道半ばして世を去り、また別な者は目標を果たすことなく終わっているのです。例えば、モーセは約束の地カナンに入ることなく死に、ダビデも念願の神殿建築を断念せざるを得ませんでした。申命記的歴史観によって記されてきた一連の文書(創世記〜列王記下)は、救いの成就ではなくバビロン捕囚という滅びの記述で終わっています。歴代誌的歴史観の文書(歴代誌〜ネヘミヤ記)の最後であるこのネヘミヤ13章も、民が再び祭儀を形骸化させ、異民族との結婚という御心に背くことを日常化させていたという記述で終わっています。城壁を再建して神殿礼拝を誠実に守り、御心に適った信仰生活をさせることを願ってなされたエズラ、ネヘミヤの改革は完成せずに終わったのです。
わたしたちの地上での信仰生活は、どの者の生活であっても、未完に終わるのです。この世にあって目標に達することはなく、信仰の高みを究めることもないのです。だれであっても完成を見ることはなく、未完の信仰生活になるのです。つまり、途上にある生活になるということです。パウロは、そのようなわたしたちの生活について、「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(フィリピ3:16)と言いました。今日、到達した所は昨日よりも進んでいないどころか、後退していたとしても、わたしたちはそこから歩み始めていくのです。ネヘミヤがここで繰り返し「わたしをみ心に留め」と祈っている(14,22,31)ように、わたしたちも「み心に留めてください」と、主の御憐れみを願い求めながら、到達したところに基づいて進んでいくのです。
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