エルサレムの城壁再建は52日で完成しましたが(6:15参照)、その工事には多くの労苦が伴いました。また妨げもありました。しかし、イスラエルの民全体が主の御前で横一列になって工事に当たり(3章)、また妨害に対しては、半分が戦い半分が防御に当たるという体制を取ったり、腰に剣を着け手には工具をもって作業をしたりして、皆が主のために仕えて完成を見たのです。ですから、自分たちの働きの故に完成に至った、とお互いが褒め合ってもよかったのです。しかし、城壁の奉献式の時、彼らは自分たちのことについては何も言わず、様々な楽器を用い、合唱隊を編成して若男女が共に主を賛美したのです。
それは、この工事は主の「助けによって…なされたのだということを悟っ」(6:16参照)ていたからでしょう。主の宮に関わることは、わたしたちの働きによるのではなく、皆主のお働きによるのです。わたしたちは、それに仕えさせていただくだけです。そうであれば、何事かをなし得たとしても、わたしたちは「打ち砕かれ悔いる心を」(詩編51:19)もって、なすべきことをしたに過ぎませんと言って、御名を賛美するのです。
賛美には「ヨブ的賛美」と「ダビデ的賛美」がある、とリュティは言っています。ヨブ的賛美とは、苦難に遭ったとしても、「主与え、主取り給う、主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)と言って主を賛美するものです。ダビデ的賛美とは、罪を犯しますが、その中で罪の赦しを与えられていることを知り、「打ち砕かれ悔いる心を」もって主を賛美する賛美のことであります。どちらの讃美も必要です。しかし、御前で罪のない人はおらず、皆恵みによって罪の赦しを与えられているのですから、老若男女どの人も、繰り返し「打ち砕かれ悔いる心を」もって主を賛美する信仰生活を送って行くのです。
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