イスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還、城壁を修理して、それぞれの地に住みました。そのリストがこの11章に記されていますが、それらの地は、すべて嗣業であったのです。
神の民イスラエルはバビロンに捕虜として連行されたとき、当然ですが、嗣業を失いました。それは、単に土地がなくなったということに止まらず、神との関わりが途絶えたということをも意味しました。実際、彼らはバビロンで、神の助けを受けることができない故に、涙する日々であったのです(詩編137:1「バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた」を参照)。しかし、神は彼らの住むべき地を、嗣業として備えてくださっていたのです。
わたしたちキリスト者も同じです。主イエスは十字架にお掛かりになる前に弟子たちに向かって、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14:2∼3)と仰せになりました。主イエスは十字架の死と復活の後に昇天されますが、それはわたしたちに嗣ぐべき地を、天に備えてくださるためであるのです。ですから、パウロも言いました。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」(Uコリント5:1)と。
「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」(同5節)とあるように、神の御心により御子が遣わされて来られて、わたしたちは御国を嗣ぐ者とされているのですから、この地にあって喜びと望みをもって歩むのです。
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