完成したエルサレムの城壁を守るために必要な者たちが立てられたことが、この7章に記されています。また、バビロン捕囚から帰ってきた人々のリスト(6節以下)が記され、特に39節以下には神殿礼拝に従事する者のリストが記されています。それらの神の民にとって必要なことは、冒頭の聖句にもあるように、心から「神を畏れる」ことです。それは、いつの時代の神の民にも言えることです。神を畏れ敬うほかないほど、わたしたちは神の深い憐れみと大きな愛に包まれているのです。
帰還した人の中に「アナトトの男子128人」(27節)がいたと記されています。彼らはバビロン捕囚の前、エレミヤの言葉に聞こうとしませんでした。それだけではなく、エレミヤの命を狙いさえしました。それ故に、主は「見よ、わたしは彼らに罰を下す。…わたしはアナトトとの人々に災いをくだす。/それは報復の年だ」(エレミヤ11:23)と仰せになりました。バビロン捕囚はその災いの機会、報復の時であったと言って良いのです。しかし、その彼らが帰ってきたのです。それは主の憐れみによることです。恵みによる罪の贖いという奇蹟以外の何ものでもないのです。
また41節では「パシュフルの一族」に言及されています。彼らも「パシュフルよ、お前は一族の者と共に…バビロンに行って死に、そこに葬られる」(エレミヤ20:6)と宣言されていたのです。しかし、帰ってきたのです。主の憐みによったのです。恵みによって罪贖われたからです。神の民として残ることができているとすれば、主の恵みによる罪の贖いの故なのです(エフェソ2:4∼6参照)。そのことを思ったら、主を畏れるほかないのです。畏敬の念をもって、主を主として崇めるしかないのです。
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