あなたを生かす聖書の言葉

2022年10月30日(投稿)

今週の聖句    エズラ記9

「イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、わたしたちは今日も生き残りとしてここにいるのです。」

(エズラ記9:15) 

イスラエルの民は罪の報いとしてバビロン捕囚にあったのですが、上記聖句のように、神の恵みによって生き残るを得て、今エルサレムに居るのです。その恵み深さを覚えたなら、神の御心に適った歩み、即ち神の主権をこそ重んじて生きるのが当然のことでしょう。自分たちの人権とか魂の救済とかよりも、神に栄光が帰されることこそ、重んじて生きて然るべきなのです(2022/9/11発行,「今週の聖句」本文11行目以下参照)。それは、何よりもまず、主なる神をこそ神として礼拝するという仕方でなされるのです。

しかし、当時のイスラエルは、民衆だけではなく、宗教的指導者である祭司を含め「長たる者、官職にある者が(異民族との婚姻という)悪事にまず身を染めたのです」(9:2)。異民族との婚姻は律法で禁止されていました。それは、今風に言えば、国際結婚で基本的人権の範囲内ですから、それを禁じるは、今なら非難、否定されるでしょう。しかし、その規定の背景には偶像礼拝があったのです。異民族、特に1節に挙げられている民は、出エジプト記34章など異民族との婚姻を禁じている箇所に出てくる民たちです。彼らはバアル礼拝に耽っていました。他民族との結婚は、そのような偶像礼拝を神の民の中に持ち込むことになり、真の神礼拝を損なうことになりかねないのです。だから、他の神々を礼拝する者たちとの婚姻は禁じられたのです。特に、長たる者は、真の礼拝を守るためにも、そのことが強く求められるのです。

「子たちよ、偶像を避けなさい」(Tヨハネ5:21)。偶像礼拝は簡単にわたしたちの中に入り込みます。そうであれば、最高レベルの厳しさをもって警戒せねばなりません。民の共同体が、更には家族が挙って真の神を礼拝する、それこそ「何という恵み、何という喜び」(詩133)と言えるのです。

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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