あなたを生かす聖書の言葉

2022年9月11日(投稿)

今週の聖句    エズラ記

「主が…ご自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。…主の民に属する者はだれでも、エルサレムに…上って行くがよい。」

(エズラ記:2,3) 

バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民に向かって、ペルシャ王キュロス王は、エルサレムに戻って主の神殿を建てるよう、命じます。それは主なる神に用いられてのことです。キュロスが主ではなくて、主なる神こそがすべてのものの主権者であるのです。イザヤ451でもキュロスのことが「油注がれた人」と言われていますが、その文脈の中で主なる神は「わたしは主、ほかにはいない」(同6節)と語って、主なる神こそがペルシャの王キュロスをも指揮下に置いている真の主権者であることを告げているのです。わたしたちに願われることは、その真の主権者をこそ正に主と崇めることです。そのために、「随意の献げ物」、即ち喜びをもって自らを献げ、主をこそ主として礼拝するために必要な宮を建てるために仕えるのです。

「この世における神の栄光と神の目的は、人間の魂の救済よりも重要」であると語ったのは、リースです(『改革派教会の伝統』P.76、新教出版社)。わたしたちは逆に考えます。自分の魂の救済のめに、神は働き給うのではないか、と。しかし、自分の満足のみを求めていたら、その者の行く末は滅びです。自分を主にする人同士がぶつかり合ったら双方とも倒れるというのは、世の常識です。自分の満足ではない、神の主権が確立する所でこそ、わたしたちの真の救いも平安も成るのです。実際、主なる神は、わたしたちの救いのために、独り子なる神を十字架にお掛けになることを厭わなかったのです。神が神しかなし得ない御業をなし給うことによって、即ち神が神として立ち給うことによってこそ、われわれの救いも盤石になるのです。ですから、まずその神にこそ栄光を帰するのです。そのためにも神の宮の建設に、喜びをもって仕えていくのです。それが、いつの時代にも、求められることなのです。

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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